5/13にラファエロ展にいってきました
この日は閉館日ですが学生向けに特別公開ということでした。
で、一応もってる学生資格いついかすの?てなことで有休とっていってきました。
ふだんより混雑がましな程度かなと思っていたら、学生なにしてんのってくらい人が少なかったです。
国立西洋博物館の入口、いったことがある人は知っているでしょうけど、ロダンの飾ってある広場への入口ですね、
そこに係の人が立っていて入場資格のない人を(丁重に)追い返していました。
はたして学生資格があるだけで入れてもらえるのだろうかと危惧しましたがあっさり入れました。
入口より内側はふだんの特別展の時の喧騒が実際うそのように静かでした。
あまりの人の少なさに笑みがこぼれてしまうくらい。
入館するとちょっと暗い通路を案内されてVIP感がありました。
写真はとってません(美術館なので)
会場内部にはそれなりにいましたけど、混んでるとこでもせいぜい20人でしょうか。
それも平常時のように次から次へと来館するわけではないので、
ちょっとまっていれば自分だけが鑑賞できるタイミングがすぐにくる、という程度です。目玉の大公の聖母ですら20cmの距離から数mの距離までゆっくり鑑賞できました。
で、この日は、何人か絵画鑑賞案内みたいなことをしてくれるナビゲータもいたのです。
なんというか西洋絵画というのはある程度アトリビュートがわからないとわからない、とか聖書を知らないとなにがなんだかわからない、とかそんな一面があります。
キリスト教の美術でいくと有名どころは、
シュロを持っていれば殉教者だとか、
香油壺をもっていればマグダラのマリアだとか、
目をもってたらルキア(サンタルチアですね)だとか、
時計とか骸骨の踊り(死の舞踏)はmemento mori(死を忘るな)だとかでしょうか。
…といっても、一種の前提知識がないとわからない、逆にそこで生まれ育った人ならなんとなくわかる というのは日本にだってあって、
神社に狐がいたらあれは稲荷神社だとかいうのは(祭神が宇迦之御魂神とかわからなくても)なんとなくわかるでしょうし、
烏をみたら(熊野を思いださなくても)八咫烏という名前はでてくるでしょうし、
あるいは、どこそこ寺で、あれは(薬壺もってるから薬師如来で、したがってその脇侍は日光月光だとかわからなくても)なんか仏様だよねってのは印象でわかるでしょうし、
道端にあったとしても、そこに梵字が書かれていれば(どの如来に該当するかはわからなくても)なんとなくあれは仏教系のモノとかわかるでしょうし。
結局、崇高であれ、低俗であれ、芸術が文化から完全に切り離されるということはないわけで、その文化で育ってきた人であればなんとなくわかってしまうような部分、というのは重要な知識です。
重要ではありますが一般の鑑賞者に求めるのは酷というもので、それをオンデマンドで補足してあげるナビゲータというのはわりと気が利いた試みです。
隠喩的な情報に限らず、対角線に注目して配置を見るとか黄金比に注意してみるとかいったこともそうですね
作法や様式というものがありますから、
いいとされているものがなぜいいのか、とか、
ある名画が名画と呼ばれるのは、どれほどの絶妙なバランスの上に成立しているからなのか、とか
逆に、ある絵画がなぜ革新的なのか、とか
そういったことが理解できるかどうかでも楽しめる幅はかわります。
もちろん楽しみ方は自由なのでオレオレ鑑賞でもいいのですけど、
将棋の世界でいうと故米長さんの解説がそんな部分がありましたね。
名対局とされる対局に彼の解説した対局が多いのもそういった事情があるでしょう。
ナビゲータですが、ナビゲータと一緒に集団が移動していくという感じではなく、
いろんなところにナビゲータがいて気が向いたときに随時客を集めて説明するという形式でした。
当然各ナビゲータは比較されてしまうわけです。やはりナビゲータによってわかりやすさが違っていますので。
上記の知識は、単に教えてもらっただけだとなかなか「なるほど!」とはならないものです。むしろ「え?はあ。。(たしかにそうなってる…が…)」という反応になることが多いでしょう。
テキストにおいて、無味乾燥とも思えるユークリッド式が初学者にハードルが高い所以です。対極にあるのが問答式の本だろうと思います。
王道の展開は、わかる部分について同意を得て、そこから疑問を導いてあげて、その疑問を承認してあげて、その答えとして提示してあげて、ですか。
せっかく対面でやるんですから、そんなナビゲートを期待したいところです。
もちろん順をおって厳密に話をすすめるほうが”かっこいい”し(自己)満足できるのもたしかです。それはよくわかります。
よくわかります。
この誘惑に!うちかった者だけが!拍手喝采の栄光に輝けるのです。
これはホスピタリティの違いといってもいいかもしれません。
自分が伝えたいことを発信するのか、
それとも、入口を広げるために少しでも伝えることを第一に考え細部に目をつぶってでも気軽な楽しさを演出するのか
前置きが長くなりましたが、このエントリは、そのナビゲータの方が話していたことを記憶にある限り共有しておこう、というのが主旨でございます。
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フィレンツェとルネサンス
- フローレンスとよばれた
- 花の都
- ダビンチ ミケランジェロ そしてラファエロ
16世紀というのは彼らが同時に存在した時期 - ルネサンスというのは復興を意味する
中学や高校で習ったはず
なにを復興させるか
イタリアにとってはそれはギリシャローマの時代
最近はゲルマンにおされていたけれども
それはまあなかったことにして古きよきあのころを取り戻そうじゃないか
これからまたあの頃のようにしていこうじゃないか
それがルネサンス - ルネサンスとは中世
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聖ゲオルギウスと竜
- わかりにくいのは西洋の根底にある聖書や伝統を知らないから
わからないとつまらない
そういうときでも、まずは何がかかれてるか指折り数えてみましょう
まず馬 騎士 竜 お姫様 そして木 山 空 - 竜とやっつけるというのはひとつの形式
ゲームでもそうだ これは西洋の伝統
悪い竜がいる いけにえ 若い子や娘
それを正義の騎士がうちやぶる
これはキリスト教が異教を打ち破っていくことを想起させている - 竜の顔 そこに馬の白をもってきて対比させている
それだけでなく黒い竜に黒い騎士 間に白い馬 緊張感を出している - だけど、馬の格好は前足をあげている 芝居がかっている
これは古代の彫刻の様式
どちらかというとポーズをとっている
騎士もふりあげてポーズをきめている
そういうのんびりとした感じもある - 遠くがはっきりかかれているというのはイタリアではない
フランドルの様式
これは油絵によって実現した
それまではフレスコ画 - フランドルの絵は精緻にかかれる これは違うけど葉っぱの一枚まで描いたりする
油は薄くぬれる それで精緻にかけるようになった - 絵画に限らずコーロッパにおける文化というのはアルプスで大きく分断されている
だが油絵はそれをこえてフランドルからはいってきている
いいものはとりいれられている - ただ、それゆえ、だからあいつ(=ラファエロ)はだめだという人達もいてそういう人達はラファエロ以前に立ち戻ろうという運動をしていた
- テーマというのも違う
(ルネサンス期の)イタリアはこうはなやかでやわらかな絵
フランドルは暗い キリストがこう悲痛な感じだったりする
ちなみになぜ聖ゲオルギウスとわかるかというとこれ自体アトリビュートで、竜がいればゲオルギウスです。
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赤い色
- 赤い染料というのは非常に高価だった
だからお金持ちに描く時はふんだんに赤い色を使った
マリアさまというのはだいたい赤い それもそういう理由がある - マリアさまにはあと青が使われる
青というのはラピスラズリという宝石を使う
せっかく宝石を使うのだから誰に使うか そこでマリアさまに使う あざやかな青 - マリアさまにはあと青が使われる
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大公の聖母
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初上陸
なぜ背景が黒いか
X線でみたところ下に絵がかかれていた
ただ状態は悪く復元はできないくらいだそうだ
珍しい黒い背景の聖母子ができた
それがなかったらラファエロのよくある聖母子のひとつでうもれていたかもしれない
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タペストリ
- システィーナのもの
- 聖ステパノ 真ん中ちょっと右の人
なぜわかるか
頭に光背がついている
そして視線の先に天使がいる - 石をもっている人がいる
なにか 石打の刑で死んでいる - なぜそんな目にあったかというとキリスト教が認められていなかった時代に
キリスト教はいいものだということで広めようとした
それで処刑された
殉教、ということになる
最初の殉教者で聖人となった - タペストリ たては4.5m
10枚組のひとつでこれは小さい方 - なんにつかったか
石造りを考えてほしい 寒さ対策という意味もある - ステンドグラスもそうなのだが文字の読めない人に聖書の内容がこんなにいいものだと伝えるためのもの
- 下にかかれているのは中世の人
レオ10世は芸術を奨励した はなひらいた - だけど借金がかさんだ それで免罪符、というものを売るようになった
腐敗した 遠因となって宗教改革となりプロテスタントというものがうまれた
キリスト教世界が分断される遠因となっている - タペストリというのは紀元ころからある
おしまい